6月のみこころの道

二つの台風が日本列島を縦断し開催が危ぶまれた6月の「みこころの道」でしたが、前日には関東を通り抜け、好天のうちに集まることができました。しかも!参加者のおひとりが、前日の予定がキャンセルになったので焼くことができたというバナナブレッドを持ってきてくださるという嬉しい台風みやげ付き。マサラパウダーとシナモン、そして不二聖心のお紅茶の茶葉が入った至極のお味でした。
【講話の内容】
6月28日の「みこころへの道」では、最初にベネズエラや国内で起きた地震で被災された方、不安な日々を送っている方のために祈りました。そして、シスター髙橋登志子より「イエスのみこころの愛」について、聖書を朗読しながらご講義いただきました。
まず、6月はイエスのみこころの月とされており、イエスの聖心(みこころ)の祭日は変動祭日で今年は6月12日がその日にあたったと教えていただきました。
イエスのみこころとは神の愛、父の慈しみを表すもの。
神はご自分の愛を約束しただけでなく、それを見えるもの、触れられるものとされました。
では、愛とはなにか。それを説明するのはとても難しい。
フランシスコ前教皇は「愛、慈しみとは本性から具体的な営みであり、私たちに対する神の責務なのです」とおっしゃっています。愛は定義しようとすると難しいけれども、具体的にその行為を言ってみると、あぁ、そうそうと思いあたるものです。
そうした具体的な場面、イエスのみこころの愛に触れる聖書の箇所を、問いをたてながら、読みました。
ルカ15:1~7 見失った羊のたとえ
あなたはどちらの羊ですか? はぐれてしまった一匹、それとも九十九匹のほう?
探しに行って、首に巻いて帰ってくる羊飼いのあたたかさ。
羊飼いの杖がトントンという音で羊は安心感をもちます。
➤ 聖書に書かれていることを読むだけでなく、その場面に自分も入ってみましょう。
マタイ20:1~16 ぶどう園の労働者のたとえ
あとから来て働いたのに、最初から働いていたひとと同じ賃金をもらえたらどう感じますか?
ブドウ園の主人は「(あとから来たものにも)あなたと同じように払ってやりたいのだ。」と答えます。
マタイ26:17~25 過越の食事をする
イエスは何故「生まれなかったほうがその者のためにはよかった」と言われたのか?
ユダは貧しく苦しい生活で、金銭面でも痛めつけられた人生だった。
➤ 聖書に書かれたことだけに留まるのではなく、掘り下げてゆきましょう。
旧約では神を見た者は死ぬとされていたけれども、新約になると幼子イエスが具体的な愛としてあちらからやってこられました。神が見えるものとなったことでもたらされた転換の大きさを感じました。
【参加者からの感想】
日常生活の中で愛という言葉はしばしば耳にいたしますが、その定義は何か、私自身疑問に思うことが多々ございました。しかしながら、今回の講義を通じて、カトリックにおける愛とは決して曖昧なものではなく、目に見える形で示されるものであると理解いたしました。
講義では聖書の三つの箇所が取り上げられ、より具体的な行動について考察いたしました。一つ目は「見失った羊のたとえ」、二つ目は「ぶどう園の労働者のたとえ」、三つ目は「過越の食事」についてでございます。これらに共通する点から、愛とは自らの利益を優先するのではなく、他者と共に喜びを分かち合い、共に生きることではないかと考えるに至りました。
三つ目の「過越の食事」の箇所には、「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉がございました。これは、愛をもって行動することのできなかったユダに対し、イエスが憐れみと悲しみを抱き、また愛に基づく正義として厳しい言葉を投げかけられたのではないかと考えました。紛争の絶えないこの世界において、一人一人が愛についての理解を深め、実践し、真の平和が実現されることを願っております。(大喜多織衣)
