母の祈り、名を呼ぶもの

2019年04月01日

人は生まれると名づけられ、その名で呼ばれる。母は私の名で新生児に呼びかけてその将来を祈願する和歌を詠み、書き残してくれた。「ひろやかな心に神を仰ぎつつ、人を愛せよ、めぐし***よ」と。

人生の旅路には分かれ道が幾つかあって、予期しない道先が示されることや、行き詰ったと思ったら別の近道に導かれることがある。

幼少期は、あたたかい家庭で両親・弟妹と共に阪神間の閑静な郊外で暮らした。小学校は師範学校の付属でよい先生方と友達にも恵まれたが、1年生の12月から6年生の8月までが戦争だったため、教育方針が皇国日本の軍国主義に徹していて、体育などは教練並みの厳しさだった。終戦の翌年に、母の希望で私はそれまでの学友たちと別れて1人だけ宝塚に近い小林聖心女子学院に進学した。そこで世界はがらりと変わったのである。「鬼畜米英」を憎んで撃滅する気合いをかけられてきたのに反し、戦争の間にも母国に帰らずに日本に留まり、まるで何事もなかったかのように暖かい心で生徒たちを教育してくださる外国人宣教師のマザーたちに初めて接した。朝礼のあと聖堂に行って、教練の先生の号令ではなく、マザーの手の中で「カチッ」と鳴らされる木のシグナルの音で一斉に床にひざまずいて静かに祈る生徒たちの習慣にも驚いて感動した。新しい級友達は親切で学校全体が家庭のようだった。時にはいたずらや悪口、意地悪があったとしても、何かが違っていた。ある時ちょっといやなことがあった翌日、相手が「昨日はあんなこと言ってごめんなさい。告解に行って神様に赦していただいてきたから、あなたも赦してね。」と言ってくれた時、自分も洗礼を受けて信者になりたい、と思った。この学び舎で次第に神様に引かれてゆくのを感じた。

戦時中は命をかけて敵機に体当たりしてゆく若い特攻隊魂に感激したが、授かった命を懸けるなら本当に価値のあることに捧げるべきだと、生涯を神と人への愛のために尽くす、特に外国からの修道女の姿を見て思った。中3の黙想会の時にどうしても洗礼を受けたい、そしてシスターになりたい、と心に決めて教理の勉強と主日のミサに行くことを始めた。11月に母が病に倒れて若くして亡くなった時、臨終に洗礼を授かることができ、翌年、高1のクリスマスイブに私自身が受洗した。母の誕生日だった。それに先立ち、中3から高校に進むにあたって担任の先生が、義務教育を終わって更に上級に進むことの目的は何かを書いて出すようにと言われ、心に秘めていた希望を素直に書いて提出したところ、大事に取っておくからとおっしゃってその紙を返していただけなかった。その時、もう取り返しのつかない約束を神様にしてしまったと思った。

その後は色々あったが聖心会に入会が適い、今日まで導かれて来た。信仰をいただき、神に仕え、人を愛する道をたどり始めてから、もう長い年月がたった。長年学校使徒職に携わって来たが、定年後はカトリック東京国際センター(CTIC)でお手伝いさせていただいている。仕事は色々あるが、外国から日本に来ている労働者、移住者、難民(申請者)の方たちの権利が守られ、尊厳を保って生きてゆけるための相談や支援、日本で信仰生活を守り深めるための教育などに奉仕する。東京大司教区の教会司牧奉仕だが、聖心会員としても大きな喜びである。神を知り、人生の意義を分からせていただいたのは、私にとって、外国から生涯を日本での愛の奉仕のために捧げにきてくださった宣教師の司祭・修道女方の存在だった。外国へのミッションに行くことは出来なかった代わりに、外国から来られた人たちに少しでも尽くすことができる機会を得たことを感謝している。思えば私が生まれる前から神は母の祈りを聞き、名を呼んで導いてくださっていたのである。 (T.S.)