わたしの呼ばれた道

2019年04月04日

 「神様にすべてをさし上げたい!もしお望みならば、」と心の中で叫んだのは、高2の時だったように思います。しかし、その後いよいよ人生の進路を考える時になって、「本当に神様は私を呼んでおられるのだろうか」と思い悩みました。自分の思いや考えに自信のない私は、心の奥に聞こえる呼び声をなかなか信じられませんでした。そんな私に「人生にはジャンプが必要です」という言葉が返って来ました。そして、24歳のときにジャンプ。

 大きなこと、小さなこと、何かを決めるときには、できるだけのデータを集め、いろいろな意見に耳を傾け、良いと思ったことを選ぶというのが普通でしょう。そのときに大切なのは、心の奥でささやく声に聴き従うということではないでしょうか。大天使ガブリエルがマリアに現れたように、私にも、誰かがこれですよといってくれれば決めやすいのに、と思ったこともありました。でも、そんなことは普通はないのです。しかし、神様は私たちの心の中にささやかれることは確かです。その声に耳を傾け、ジャンプして、後は神様にお任せする、というのが、これまで歩んできた道を振り返ると、自分の生き方のパターンのように思うのです。

 カトリック信者の家に育ち、カトリック学校に学んだおかげで、子供のときから神様はいつもそばにおられると感じていました。しかし、その神様は、よいことをすれば喜んでくださる方だったように思います。神様が、私のありのままを条件なしにそのまま受け止め、愛してくださっているということを心の底から信じるようになったのは、終生誓願を立てる直前でした。それから30年経ちました。この間に、この神様の愛の中でゆったりと、また精一杯生きることの喜びが深まったように思います。そして「神様にすべてをさし上げたい」という最初の想いを生きられるのは幸せなことだと思っています。

 何かよい体験をすれば、それを人にも分けてあげたいというのが自然なあり方です。神様の愛を知ったなら、それを人にも伝えたいというのが、キリスト者の生き方です。「神の愛を悟りそれを告げ知らせる」というのが聖心会のカリスマであるのですから、どのような仕事をいただくかはあまり重要ではない気もします。「自分に託されたつとめがどのようなものであっても、一つの使命を、みなで担っているのです」と、聖心会の会憲にある通りです。私たちの呼ばれているのは「生活そのものと、働きすべてを通して、福音を告げる」ことだからです。それも自分の好き嫌いで選んだ人々とではなく、「イエス・キリストの名において集められた」仲間たちとこの道を歩むのです。これはチャレンジでもあり、醍醐味でもあります。この生活での年数を増すほどに、「呼ばれた道」を歩むにはお互いの支えと助けがどんなに大切であり、共に歩むことはどんなにすばらしいことかを実感している次第です。(M.S.)