Sr.Barbara Boweの「観想と預言」(2011-3)の続きです。
神との預言的出会い:注意深くあること:
2008年総会の「観想優先」を理解して前述の挿話(前号にあったモーセのこと)と対話するなら、観想的体験と使徒的熱意の中で、同じ響き(和音)を聴くことができるでしょう。
こうして心の隠れた場所で、霊は私たちの感覚と感応を変容させて、私たちを神との親しい関わりに引き入れます。霊は、日常生活の中で神の現存とその愛を見いだせるように、人々の鼓動に私たちを合わせてくださいます。私たちは、この体験が全く理由なく無償で与えられるものであることを認めます。私たちがキリストの心を観想する時、自分たちのうちに聴く心を育てて、神の現実に近づけてくださる霊の動きに、正義、平和、創造世界の保全への願いをもって入っていきます。(2008年総会文書訳p.24)もちろん変容ということばが、総会文書と出エジプト記に描写された神とモーセの出会い双方の鍵となっています。観想の中で、私たちは神の現存のみ前で自分を開き、自分の精神と心を変容してくださるよう、神に願います。出エジプト記3:4~4:17の長い対話は、モーセに起こった変容を記しています。彼は神の招きに対して5回固辞し、3:11では、「わたしは何者でしょう」、3:13では「彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」、4:1では「彼らは『主がお前などに現れる筈がない』と言い」、4:11では、「ああ主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません」、そして4:13では「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と言っています。しかし、その度に神は彼を召された救いと解放のみ業における、ご自分の現存、指導、援助、保護を再宣言し、モーセの変容を行われました。そして私たちと同じように、モーセは次第に神の呼びかけに少しずつ応えていきます。会憲も同じことを述べています。「イエズスの愛に気づき、それを現すようにとの招きに応えて、私たちは、霊が変えてくださるままに、主と一つになり、愛と奉仕のつとめを通して、イエズスご自身の愛が輝き出るよう生きるのです。」(会憲§4)
神は時には囁かれる:
他の預言者への呼びかけの話も、観想における神の神秘との出会いの優位を同じように強調しています。紀元前9世紀の火のように偉大なエリアは、モーセの預言者的遺産を継承しています。列王記上19の非常に好まれる話の中で、この預言者はシナイの砂漠でたった一人となり、神の山ホレブに着いて、そこにあった洞穴の入り口で神の異常な体験をしました。神は激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられませんでしたが、火の後の注意深く耳をそば立てなければ聞こえない、静かに囁く声の中におられました。エリアへの神のご出現は、形としては分かりにくいものでしたが、モーセの時と同じように預言的力に満ちた劇的なものでした。
神は日常茶飯事の中で、私たちの意表をつかれる:
紀元前8世紀に、イスラエル北王国で二人の預言者アモスとホセアが話しています。アモスの生涯の詳細はあまり定かではありませんが、南のベトレヘム近くの村テコアにあった家と畑から、神によって召された体験の資料があります。そこから神は北に向けて、彼を預言者としてのミッションに送りました(アモス7:14‐15)。 彼が非常に大きな犠牲を払ってこの呼びかけに応えたこと自体が、神との出会いの強い力を証明しています。それは彼の人性の方向を転換させ、ベテルの王とその祭司アマツヤは、彼に対して敵意を抱きます。しかし神との出会いは、不正な人々に対するアモスの激しい非難のメッセージに力を与え、忠実な人々へ神からの希望のことばを具体化しました。アモスは当時の腐敗の苦しみに対する神の思いを抱いていました。彼は弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げる裕福で高慢な人々を罵りました(アモ4:1)。家畜を飼い、いちじく桑を栽培する(アモ7:14)あるじは、神の正義を訴える激しい預言的声となります。私たちは、神と彼の観想的体験がどんなであったかを想像することしかできません。
神は私たちの個人的出来事の中で語られる。
ホセアは観想と預言のあり方で異なった洞察を示しています。ホセアの記述もほんの少ししか詳細を記していませんが、個人の生活が神の啓示の第一の手立てとなったことを伝える預言者として表明されています。売春婦として描かれた女との結婚の失敗、名前が神の目的と意志を示す子どもたち、妻であるゴメルへの、人の心を動かすほどの愛と忠実が、それらを通して語られる神の命の体験となったのです。“現実”を観想することが、1970年に私たちに絶えず語られたコンチャの呼びかけでした。私たちの内的生活と個々の体験が、神を啓示する場となることを、彼女は確信していたのです。この確信はホセアの体験の中で本当であると証しされています。彼は自分の生きた生活を通して知り、体験した神の絶え間ない愛とコンパッションを識り、それを宣言するよう呼ばれていると感じるようになりました。彼の預言者としての衝動は、苦しむ人々への神の愛と自分への愛を、愛の深い力として体験したことです。この観想の実りは、ヘブライ聖書の中の最も美しい預言的詩を生み出しました。
わたしは背く彼らをいやし、
喜んで彼らを愛する。
まことに、
わたしの怒りは彼らを離れ去った。
露のように
わたしはイスラエルに臨み、
彼はゆりのように花咲き、
レバノンの杉のように根を張る。
その若枝 は広がり、オリーブのように美しく、
レバノンの杉のように香る。
その陰に宿る人々は再び麦のように育ち、
ぶどうのように花咲く。
彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる。
ああエフライム、
なおもわた しを偶像に比べるのか。
彼の求めにこたえ、
彼を見守るのはわたしではないか。
わたしは命に満ちた糸杉。
あなたは
わたしによって実を 結ぶ。(ホセ14:5‐9)
(次号に続く) (里見貞代訳)








